「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と江戸時代から謳われました。 徳川家康により江戸北部の防衛線の役目を果たすとして、 松平信綱などの有力な大名が配置され、川越藩の城下町として発展しました。 また新河岸川の舟運の拠点や川越街道の出発点となるなど、 江戸の物資供給源として栄え、多くの商人が蔵を築きました。
そして、今もなお残る「蔵造りの町並み」。 最盛期には100軒以上の蔵造り建物が街中にひしめき、町並みを形成していました。 この町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火です。 当時の川越市の全戸数3,315戸のうち、1,302戸を焼失、川越の市街地のシンボルである時の鐘も焼けるなどの被害が出ました。
川越商人たちは江戸時代以来、江戸との商いで蓄積してきた富を復興のためにつぎ込みました。 同じ惨事を繰り返さないよう、大火の際に焼け残った建物が伝統的な工法による蔵造り建物であったことに着目し、競うように蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てました。 その際、伝統工法だけに固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れ、いわば「川越的蔵造り建物」による町並みが形成されていきました。 この川越の蔵造りは、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。